“正しさ”は存在しない。

「真理に気づいた」と思ったとき、人はついこう言いたくなる。

「あれは嘘だった」「あれは間違いだった」

けれどそれは、この世界に「間違い」というラベルを貼ることに他ならない。

この世界は不完全で、修正されるべきだと。


そのとき、同時に生まれてくるのが「責任」という概念。

間違いがあるなら、それを正さなければならない。

誰かが悪い。なら、誰かが責任を取らなければならない。


だが、そう世界を裁くということは

自分も裁かれる側に回ることもある、ということ。

「自分が悪かったんだ」「自分が間違っていた」

そう思った瞬間、無自覚に“荷”を背負ってしまう。


「じゃあ、間違わなければいいじゃん」と思うかもしれない。

でも、人の価値判断ほど、あやふやなものはない。

昨日「正しい」と思ったことが、今日には「違ったな」と思えるのが人間だ。

だから人は、気づかぬうちに、

“揺れる正しさ”のなかで、自分を裁き、荷を背負い続けている。

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例えば、あなたが恋人と買い物に出かけたとする。

そこで、恋人にぴったりの洋服を見つける。

それを実際に購入する。

あなたは幸せでいっぱいだ。


だが、その後別のお店で、その服が半額以下で売られていることに気付く。

あなたはこう思うだろう。

「うわーー、やられた。あの店はボッタクリだった。この洋服を買ってしまったのは最悪だ」


だが、本当にそうなのだろうか。

他のお店でもっと安く売っているからといって、

あなたが恋人と楽しく過ごした時間は、偽りだったことになるのだろうか。


現に、その時楽しんだはずだ。

それで終わりじゃないか。あなたが他の店で同じ洋服を見かけるまで、その事実は確かに存在していたはずだ。

それが無かったことになるのだろうか。


もっと極端な例をあげよう。

「占い、風水、霊感商法、これらは全て嘘っぱちだった」

だが、それらを受けていた頃は、あなたの心は軽くなっていなかったのか?

その恩恵を受けていなかったのだろうか?

あなたは何かに頼りたくて、荷を下ろしたくて、そこに辿り着いた。

そして実際にも荷が降りたはずだ。

その過去は無かったことになるのか?

あなたがそれらに救われたときが、確かにあったはずだ。

先が見えなくて、どうしようもなく不安で、

“何か”にすがりたかったあの瞬間。

そして、実際に心が少し軽くなった。

あの安心感、あの呼吸の深さ。

それらは”偽り”になるのだろうか。

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正しさというものは、一体何なのだろうか。

それは、どこかに“存在するもの”ではない。


ただ、あなたの中にある、狭く、移ろいゆく価値観にすぎない。

その基準は、時間とともに変わっていく。

「荷が降りる。幸せになる。」

これは全て時間、場面によって移ろいゆくものだ。


言わば、その瞬間、瞬間毎に適切さは内在している。

そのとき、その場所、その心の状態において、

たしかに、それは「正しかった」のだ。

でもそれは、変わってゆく。

どこまでも、流れ続けてゆく。

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子供の頃、あんなに夢中になっていたゲームも、

今のあなたにはつまらなく映るかもしれない。

砂場で無我夢中で作っていた泥団子も、

今のあなたにとっては、取るに足らないものかもしれない。



だが、だからといって、

その過去は、意味のないものだったことにはならない。

あなたはその時、その場で幸せを感じていた。

世界そのもののように感じていた。

それは紛れもない事実だ。真実だ。


例え、今のあなたがどのような価値観を持っていようが。

過去を今の尺度で切り捨てる必要なんてない。


過去にしがみついても、意味はない。

全くもって、ナンセンスだ。


今のあなたの価値観で見れば、

あのときの選択は「間違い」に見えるかもしれない。


だが、あなたはその時、その感じ方で生きていた。

そこにこそ、意味があった。

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相手を裁いても意味はない。

あの人にとっては、それがその時の「適切さ」だ。

あなたには、間違いに見えるかもしれない。

無駄に思えるかもしれない。

でも、その人にとっては、

どうしようもない不安の中で、ほんの少しでも心が軽くなった、

そんな、かけがえのない瞬間だったのかもしれない。

その瞬間、誰にも言えない痛みを、

そっと癒してくれた“何か”だったのかもしれない。


他者を裁くということは、

「自分の基準が常に正しい」と信じていることにほかならない。

だが、あなた自身も変わり続けている。

過去のあなたの選択だって、

今のあなたから見れば「どうかしてた」と思うことだってあるだろう。


それでも、あのときは、

たしかに、そうせざるを得なかったのだ。

そうでなければ、乗り越えられなかった何かが、あったのだ。

それと同じことが、きっと、相手にも起きていた。

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あの頃のあなたも、今のあなたも、相手も

その時々の「感じ方」で生きているだけ。

“正しさ”は移ろいゆく。

そして、移ろいゆく”正しさ”は

もはや”正しさ”とは言えない。


「正しさ」とは、どんな時でも必ずそうでなければならない、という“執着”にすぎない。

それは、流れ続ける世界を止めようとする、心の抵抗だ。

幻想だ。

正しさは存在しない。あるのは「適切さ」だ。

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形に執着するな。

心で見るのだ。

心で感じるんだ。

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ということです。

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