損得勘定という幻想

一見損しているように見える出来事でも、

それはどこを区切りと見るか、で解釈は変わってくる。

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例えば、自分が集めたお客さんが他人の商品を買ったとする。

一見すると「自分は損した、利用された」と感じるかもしれないが、

自分のこれまでのクライアントだって、

誰かが紹介してくれたり、別の方がシェアしてくれたり、

その人自身が、他の誰かから学んだ結果、

自分の言葉に共鳴したのかもしれない。

数々の他人の繋がりがら自分に辿り着いたのかもしれない。

そのような全体の流れから見れば、あなたは得しかしてない。

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「この人には奢りたいな」

そう感じたなら、

その瞬間の心にただ従えばいい。

過去にどれだけ恩を受けたか、

これからその人が自分に何を返してくれるか。

そんな計算は必要ない。

そもそも僕たちは、何も持たずに生まれてきた。

この人生で“損”したことなんて、本当は一度もない。

今、ここにいて。

この人と出会い、言葉を交わし、

何かを与えたくなっている。

その背景には、数えきれないほどの縁がある。

自分とその人という「点と点」の関係だけで見ると、

損得は生まれる。

でも、自分と“世界全体”という関係で見るなら、

損得などという概念は、自然に消えていく。

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あなたが何か講座を受けたとする。

でも、それはあなたの想定していたような講座ではなかった。

講座を受ける前は、

「それが完璧に自分の悩みを解決してくれて、

ワクワクさせてくれるものに違いない」

と思っていたが、実際には違った。


あなたはすごく失望するだろう。


だが、それもあなたの一つの解釈に過ぎない。

その講座を通して、

あなたは大切な仲間に出会えたかもしれない。

あるいは

真摯にその講座に取り組んだことで、「自分にはこっちの道の方が向いている」と気づけたのかもしれない。


あなたが当初、想定した結果ではないかもしれないが、

実はそれよりもっと素敵な結果が出たのかもしれない。

例え、今はそう思えなくても。

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これは僕の経験上、よくあることだ。

60万円ほどの物販コンサルを受けたが、いざ取り組んでみようとすると、なかなかやる気がわかない。当時あまりお金がなくて、「面白そう」というより、金銭面の不安を動機に、その講座を受けていたからだ。

だが、そのおかげで

「例えこの先うまくいかなくても、最悪この講座を死ぬ気でやれば、食べる分のお金は作れる」

と思えるだけで、不安感は拭えた。

結果的に、自分がさらにワクワクできるビジネスを見つけて、そっちで結果を出せた。


またある時、30万円ほどの投資系の講座を受講したが、内容を見てみると、あまり良いものとは言えなかった。

だが、そこでたまたま言及されていた株銘柄の1つに興味を持ち、関連の商品を買ったら300万円の利益が出た、なんてこともあった。

何が“得”で何が“損”だったのか、もう分からない。

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解釈というのは「どこに線を引くか」で大きく変わってくる。

結局のところ、

どう解釈したって、それは自分の狭い頭の中の尺度で解釈することに変わりはない。

真実そのものは、そんな枠には収まらない。


脆く、どこまでもあやふやな解釈に自分の価値判断を置いて、

誰かを裁いたり、世界を裁くことに何も意味はない。


我々にできることは、ただ今目の前のワクワクに従い、結果を手放すこと。

「今幸せ」それでゴールだ。

結果はその副産物に過ぎない。

解釈を放棄したとき、世界は意味あるものではなく、存在として現れる。

それは解釈を超えた最も深い”理解”だ。

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