シラフの世界、つまりあらゆる信念がすべて無くなった
ありのままの世界、、
それは、「焦点を向けた先を即時に体験する」世界。
(即時世界と呼ぶことにする。)
想像しうるあらゆる場面が存在しており、
そこには自分と他人という概念は存在していない。
全ては自分が焦点を向けて見えたものなので、それは自分でもある。
「時間」という信念は存在しないので、物語は存在しない。
因果関係を見出そうとしても意味がない。
すべての場面は独立して存在しているから。
関連していない。
「こうしたら、こうなる」
という解釈はできても、
それは真実ではない。
そうしなくても、それを見たら良いのだから。
なりたいものにはなんでもなれる。
水になりたければ水になれるし、山になりたければ山にもなれる。
「なりたい」という願望すら存在しない。
願望は実現とセットで存在しており、願望すなわち実現。
だが、これでは面白くない。
(これも解釈の一つだけど、少なくとも今これを書いてる自分は「面白くない」と感じている)
だから、「時間」という信念を採用して、
「私」をデータベースで記録していく。
(これがエゴの役割)
これによって、物語が生まれる。
エゴは生まれてからのデータしか持ち合わせていない。
「焦点を合わせたものを体験する」という原理を忘れている。
覚えていると面白くない。
願望というのはどこからともなく湧いてくる。
我々が意識的に「これを願望として持とう」
としているわけではない。
つまり、シラフの世界でいう
「こっちに焦点を向けたい」という意欲。
(寝相を変えるようなもの(笑))
シラフの世界では瞬時に体験できるが、
現実世界はそうはいかない。
「時間」という信念が
「焦点」を「願望」と「実現」に分ける。
そして、願望が実現するまでに
「こんな素晴らしい願望は自分には叶えられない」
「まだまだ自分にはふさわしくない」
「願望は苦労して叶えるものだ」
、、、
という信念があるうちは、保留される。
別の言い方をすると、
「こんな素晴らしい願望は自分には叶えられない」
「まだまだ自分にはふさわしくない」
「願望は苦労して叶えるものだ」
という焦点がそのまま叶っていく。
この構造に気づけると
願望とはすなわち実現であり、
人生とは、
「どことなく湧いてくる願望が
どことなく叶っていくのを観察する」ことだとわかるだろう。
願望が湧いてくるたびに
あなたはエゴに問い合わせるかもしれない。
だが、エゴというのは物語を維持していくためのセーブの役割しか持っていない。
「時間」という信念の海に潜り込み、その視点から世界を観察するゴーグルのようなもの。
そこに問い合わせたところで、実現までの最短の道筋は出てこない。
過去のセーブデータから導き出した、答えしか出てこない。
「思考」というのは「エゴ」に問い合わせることで生まれる。
だが、「エゴ」に問い合わせることがいかに意味のないことかわかれば、
問い合わせることも無くなる。
我々は、願望を苦労して意識的に叶えるのではなく、
それが勝手に叶っていくのを眺める観察者に過ぎない。
願望とは、すなわち実現であり、
エゴに問い合わせるまでもなく
実際の有り様のあなたは、既に叶っているのだから。
その状態でいれば、
あなたが探さなくても向こうからやってくる。
これは不可避。
勘違いしてほしくないのが
「願望が叶った状態でいよう」
とすること。
願望が叶った状態に”なろう”としなくても
真実の観点において、あなたは実際にも叶っている。
ただそれを認めれば良い。
事実を捻じ曲げて
都合よく解釈しなくて良い。
あなたがどんな思考をしていようが、
どんな行動を取っていようが、
どんな感情を抱いていようが、
それとは関係なく、
実際のあなたは瞬時に願望を叶えている。
今のあなたもそうだ。
我々は即時世界の住人であり。そこから出たことなど一度もない。
即時世界の中で「時間」を採用しているのだから。