どんな教えも「自分」以上のものは存在しない。
もっと知識を求めるのは、この世界が自分より大きな存在だと思っているから。
自分より上に置いているから。
ところがこれは永遠に終わらない。
「感謝をしなさい」「愛しなさい」
一見崇高な教えに見えるが、
概念に囚われてはいけない。
あなたが「気楽さ」「軽快さ」「充実感」を感じるのであれば、それは良いこと。
ただ、これに義務感を感じるならやらなくて良い。
「今」のあなたには必要のないこと。
この教えが間違っているというわけではない。
いつか、充足感を感じる時が来たらそれは正しくなる。
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もっと身近な例を挙げよう。
「ハンバーグは美味しい」
ところが、美味しいからと言ってずっと食べられるわけではない。
2,3回食べていれば飽きてくる。
だからといって
「なんで美味しく感じないんだろう」
「どうしたら美味しく感じられるんだろう」
と悩むことはないはず。
充足感を感じられないからと言って
ハンバーグはまずい、にはならない。
いつかそれがまた美味しそうに感じれば食べれば良い。
「ハンバーグは美味しい」
は絶対的評価でもなんでもない。
あなたはごく自然に自分の感情を概念よりも上に置いている。
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だがいざ、別の分野になるとあなたは迷う。
もっと学ばなければ。
もっと知らなければ。
もっと能力を上げなければ。
まるでこの世界が自分より大きく、
自分がその下にあるかのように。
世界は自分以上の存在であり、
遅れを取らないように気を張って生きてしまう。
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どんな教えも
「今のあなたでは不十分だ。不自然」
という前提が隠れている。
だが、あなたが自然でなかったことなどあるのだろうか。
不安、恐れ、怒り、悲しみ、、
これらに満ちていたとして、不自然であるのだろうか。
そもそも自然でないものなど存在できるのだろうか。
「人間は自然から逸脱している」
この考えこそが、最も傲慢ではないだろうか。
苦しみというのは「これではいけない」という思い込みから現れる。
自分は「不自然」だと。
不安、恐れ、怒り、悲しみ、、
これらは現象に過ぎない。
これに「こうなってはいけない」と思うから苦しみは続く。
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これは教えを否定しているわけではない。
教えもまた自然だから。
その教えを通して、あなたが明るい気分になったり、気楽でいれば
それ以上のことはない。
もちろん、教えを否定することも自然。
自我を否定することは自然であり、肯定することも自然。
否定も肯定も全部自然。
自然ではない、というのもまた自然。
物事はただ起きてる。
どんな概念も、どんな感情も、どんな現象も
自分を超えることはできない。
