【暴かれる真実】「私」とはなにか。

「私」とは何だろう。

物理的に言えば、身体。

精神的に言えば、心、思考、感情、感覚。

要するに身体に、心や思考、感情、感覚(魂)が宿ったものを自分と呼ぶ。



本当にそうだろうか。

「自分=身体」なら

身体は知覚できるのでしょうか。



言い方を変えましょう。

身体が自分なら、身体を知覚しているものは何者なのでしょうか。

あなたは「身体」を知覚できる。


つまり「身体」は観察されている対象です。

観察される対象には当然、観察する主体が必要。

ではこの観察する主体は何なのでしょうか。


あなたが目を閉じる。

あなたは身体を知覚できません。

このとき、「私」は存在していないことになるのですか?


これは、思考、感情、感覚についても同じです。

「知覚できる」

というのは必ず、観測する主体と観測される客体が必要になる。


あなたが思考、感情、感覚なら

それを観測している主体は何ですか?



思考、感情、感覚というのは来ては去っていくもの。

では、あなたは存在したりしなかったりするのですか?

違いますね。


あなたは観測する主体そのものです。

ここに名前は存在しません。概念は存在しません。

これを言い表す言葉はありません。


名前をつけた途端、それは観測される対象になるからです。

それは観測されるイメージに過ぎない。

観測する主体ではありません。

あえて言うなら「それ」でしょうか。


今これを読んでいるあなたは「それ」をイメージしていることでしょう。

人はイメージしながら物事を捉えるのでそれは避けられない。

だが、それは「それ」ではありません。


そのイメージはあなたが観測している時点で

見られているのであり、

「それ」ではありません。


ここで1分間、目を閉じて「それ」を捉えてみてください。

イメージとなるものはすべて観測されているものです。

ここに注意してやってみましょう。




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いかがでしょうか。

「それ」を捉えられましたか??

おそらく困惑しているかと思います笑



「それ」を捉えようとすると「それ」は逃げていきます。

まるで同じ極の磁石が近づくと互いに反発するように。

あなたは一生「それ」に近づくことができません。

なぜそうなるのか。

あなたが「それ」自身だからのです。


あらゆる対象を観測し、決して何にも観測されないもの。

それが「私」なのです。


あなたが「それ」になる、「それ」であることに気づかない限り、

「それ」は捉えられません。


「それ」には色も形も存在しない。

「無」です。

だが、妙に安心感と心地良さ、充足感がある。


やって来ては過ぎ去るものと同じ次元に存在せず、

何にも脅かされない絶対的安全な位置にある。

決して消えることはなく、今もこれまでもこれからも

ただただ「在る」。


それは映画の観客のようなもの。

上映される映像は決してあなたを脅かすことができない。

「それ」こそ「私」そのものです。


どんな知識、言葉でもそれを言い表すことはできない。

イメージの中に存在しません。

純粋そのもの。


そこに浸ってみてください。

(もっとも本来のあなたなので、

リラックスして、すでにあるもので良いです。)


それは至福、愛、そのものです。

それが本来のあなたです。

(つづく)















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