前回、世界の創造の仕組みをお話しました。
あなたが「私=身体」という自我の立場に立つときにだけ、
世界は実体を持つものとして立ち上がり、
あなたを取り囲む“現実”が生まれる。
逆にいえば
自我が弱まると、世界はその輪郭を失い、
真我が前面に出ると、世界はただの現れに戻る。
今回はその続きです。
真我にくつろぐと、身体は“あなた”ではなくなる
自我の中心を離れ、
真我としてただ在るとき、
ある重要な変化が起きます。
それは、
身体は動いているのに、
「自分が動かしている」という感覚が消える。
という現象。
身体は歩く。
食べる。
話す。
思考が浮かぶ。
感情が波打つ。
すべての動きが起きているが、
そのどれも“私がやった”という感覚がない。
まるで映画のキャラクターを眺めるように、
身体は自動的に、適切に、必要な通りに動いていく。
行為は起きるが、行為者はいない
あなたが真我にくつろぐとき、
身体はもはや「自分」ではない。
かつては“私そのもの”だと思い込んでいたが、
その思い込みは静かにほどけていく。
身体はただそこにある。
いつもあなたに寄り添っているが、
あなたはそれを気に掛ける必要がない。
まるで枝から離れ、
風にゆらゆらと落ちていく一枚の葉のよう。
まるで空を横切る雲のよう。
あなたが何もしなくても、
それは自らの道を通り、
必要な場所へと運ばれていく。
知覚の中で身体は存在し続けるが、
それは「私」ではなく、
ただ現れては流れゆく現象のひとつにすぎない。
流れを監督する者はいない。
操作する者もいない。
行為は起きているが、
行為者はいない。
呼吸は勝手に起き、
歩みは自然と促され、
言葉は必要なときに必要なように流れ出る。
あなたがするのではない。
あなたを通って現れてくる。
完全なタイミングで、
完全な動きが、
完全な仕方で展開する。
あなたはただ、
すべてを包む静けさとして在るだけ。
そこには葛藤も選択の重さも存在しない。
映画は上映されるが、あなたはスクリーン
自我にいるとき、
あなたは映画の登場人物として生きる。
しかし真我に戻ると、
あなたはスクリーンの側に立つ。
キャラクターではなく、
キャラクターを照らし続ける光そのものになる。
映画(人生)は流れる。
キャラクター(身体)は動く。
脚本(出来事)は展開する。
だが、それはあなたではない。
あなたはずっと変わらない中心、
ただただ観照している気づき。
世界が始まるときも終わるときも、
そのすべてを静かに見守り続ける“純粋な在ること”。
世界は自我のときにだけ立ち上がり、
行為者は自我のときにだけ存在する
・”私=身体” という誤認が生じる時 → 世界が立ち上がる
・”私=行為者” という錯覚が生じる時 → 行為者が生まれる
つまり、
世界も行為者も、自我のときにだけ存在する幻影。
真我に戻ると、どちらも消える。
世界は「現れ」としてただ在るだけになり、
行為は“自然の動き”として起こるだけになる。
そこには努力も、葛藤も、重荷もない。
あるのはただ、
御心が身体を通して流れていく感覚。
あなたは完全な静けさの中で、
すべての現れを穏やかに眺めている。
真我から見た身体
あなたが身体を気にかけることはない。
あなたにとっての身体は、
ただ知覚に長い間とどまっているものに過ぎない。
「知覚にとどまる時間の差」以外で
他の物質と何ら変わりはない。
あなたがコントロールしなくても風は吹く、日は沈む。
他人は動く。
身体もその一つに過ぎない。
すべての動きはひとつの力によって生じ、
その力は常に完全で、常に調和していた。
その時、初めて気づくのだ。
全ては一つなのだ、と。
悟る人も悟っていない人も存在しない。
自由意志は存在しないが、
それが自由であること。
“選ばなくてよい自由”
“背負わなくてよい自由”
“何者にもならなくてよい自由”
あなたはただ真我として在るだけでよい。
世界はあなたが背負うべきものではなく、
あなたを通して流れていく“現れ”にすぎなかった。
この単純な事実にあなたは深く安堵する。
あなたは
「身体が最適な動きをしているのか」
気に掛ける必要がないのだ。
すべてを完璧にこなす神が宿る。
あなたはただ、
変わらず、在り続けるだけでよかったのだ。
