こんにちは。KEIKOです。
今回は「比較という名の錯覚」というテーマでお話していきます。
前回の講義がかなり長かった分、今回は短めにお話します。
なるべく1講義を3分以内に読めるように心掛けていますが、たまに執筆に熱が入ると長くなってしまいます。
お許しください。(笑)
それでは今回のテーマに入りましょう。
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「あなたは生まれたときから豊かだったことしかありません」
こう言われてどう感じますか?
「いやいや、私の家はずっと貧乏で、幼い頃は市が運営する格安の集合住宅で暮らしてたよ。服はいつも姉二人のお下がりで、自分に回ってきた頃にはボロボロ。
周りの子みたいにお小遣いなんて無くて、いつも親に気を使ってほしいものなんて何も言えなかった。家族が多い分、ごはんもいつも満足に食べられなかったよ。
これのどこが豊かだって言うの?」
あなたの主張はよくわかりました。
それでも私から見るとあなたはものすごく豊かです。
「え、、。まさか私より貧しい幼少期を過ごしてきたの?」
違います。私はとても豊かな幼少期を過ごしました。食べたいものがあれば何でも親が買ってくれましたし、お小遣いもちゃんとありました。
家族で旅行することも何度かありましたし、欲しいものも大体買ってもらいました。
それでもあなたは私から見ると、とても豊かに思えます。
「なんだそれ。私より遥かに良い生活してるのに、私が豊かに見えるって?
バカも休み休み言いなよ。
それともあれか?世界には私より貧しい生活をしている人がたくさんいる。日本は世界から見ればすごく豊かな国で、そこに生まれただけでものすごく豊かなんだよ。
ていうお決まりの文句で諭すつもり?」
そんなつもりはありません。(笑)
それにこの決まり文句に関してはあまり賛同できません。
私は子供の頃から旅行が好きで、これまで豊かな国にも(一般的に)貧しい国にも行ってきました。
そこで感じるのは「幸福は金銭的な豊かさでは推し量れない」ということです。
実際にタイによく行くのですが、そこで私が会った方々の収入は日本の平均月収の6分の1ぐらいでした。(都市部はもう少し高い)
日本では見られないぐらいボロボロな住宅が多いです。ここ数年は外資の開発で、きれいなコンドミニアムや商業施設も多数ありますが、実態は現地の富裕層か海外からのインバウンド層が利用するものでした。
そんなタイですが、流石ほほ笑みの国と言われるだけあって、みんなよく笑っていて幸せそうです。
現地のタイ人で、日本によく遊びに来る方に「そんなに日本が好きなら、日本で暮らせば良いじゃん」と言ったことがあります。
すると相手から
「日本は旅行に行く分にはすごく素敵だよ。清潔でご飯も美味しい。四季があって観光する場所もいっぱいある。
でもね、日本はしっかりしすぎて暮らすには窮屈に感じてしまうんだ。」
という驚きの返答がありました。
私はせっかく現地の日本好きの方と知り合ったので、移住したいなら手伝う気満々でしたが、思わぬ拒絶を喰らいました。(笑)
話を戻しましょう。(笑)
私は何もあなたの生活を世界のどこかさらに貧しい生活を送っている人と比較して「あなたは豊かだ」と言いたいわけではありません。
実際にもあなたは豊かなのです。真実の観点において、です。
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あなたに質問です。
豊かな人とはどんな人を指しますか?
「大きい家に住んでて、ブランド品の洋服や時計を身に着けて、高級車に乗ってるお金持ちだと思うよ。」
そうですね。テレビやSNS、広告や雑誌で目にする「豊かな人」のイメージはたいていそんな姿です。
そういう人たちは、自信があって、自由に見えて、何もかも手に入れていて、いつも満たされているように感じられます。
そんな人と比べると、今のあなたは小さな家に住んでいて、安物の洋服と時計を身に着けている。乗っている車もやっとの思いで買った中古の車だ。
「そんな風に言わないでくださいよ。なんか自分がひどく惨めで情けなく感じてきましたよ。。。」
だってあなたが高級なものばかり持っている人が豊かな人だと言ったじゃありませんか。
それに比べてあなたは持っていない。あなたは貧しい人に違いない!
「うーん。言ったことは言ったけど、でもそんな言い方はないよ。それにそこまで貧しいとも感じていない」
おやおや、今重要なことを述べましたね。
「私は豊かではない。でもそこまで貧しいとも感じていない」
これは注目に値する発言です。
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人はだれもが理想を持っています。
意識的であれ、無意識的であれ、理想を叶えることに尽力します。
だが同時に「とはいえ、今の生活もそれほど悪くない」と、ある種の満足感を覚えているのです。
では、なぜこのような思いを抱くのでしょうか?
それは、あなたが今この瞬間、生きているからです。
豊かになりたいという願いは確かにある。
けれど同時に、生きていくうえで致命的に困っているわけではない。
衣食住はなんとか足りているし、今日も呼吸をして、何かしらの選択肢を持って生きている。
その現状に、どこかで“悪くはない”という評価を下しているのです。
でも、その“評価”とは、何に対してのものでしょうか?
「もっと豊かな人」と比べれば自分は足りない。
けれど「もっと苦しい人」と比べれば自分はまだマシだ。
そうして、豊かさとは常に“誰か”との位置関係で測られる。
あなたにとっての豊かさは比較の上に成り立っているのです。
これ自体が、実は錯覚なのです。
豊かさは比較という属性に属しません。
それはエゴの視点からの偏向評価にすぎないからです。
比較というのは、日常の中にさりげなく入り込んできます。
たとえば、夜に何気なくSNSを見ていたとしましょう。
誰かが「海外旅行中!」「ブランドの新作バッグ買った♪」と投稿しているのを見ると、自分のその日の晩ごはんや、部屋の中が、急に“つまらないもの”に見えてくることはありませんか?
たった今までは何とも思っていなかったはずなのに、誰かと比べた瞬間に「私は足りていない」と感じ始めてしまう。
でもそれは、本当に“現実が貧しくなった”からではありません。
単に、“他人との比較”というレンズを通して世界を見たことで、目の前のものが色あせて見えただけなのです。
他人の現実との比較が、あなたの心に“錯覚のフィルター”をかけているのです。
では、「比較」を手放したとき、世界はどのように映るのでしょうか。
あなたが大海原に沈むきれいな夕日を見ているとしましょう。
こんな時、美しい景色を見て「綺麗だなぁ」「素敵だなぁ」と純粋に感じるはずです。
あなたの頭の中で
「この景色より、以前京都の山奥で見た景色のほうが綺麗。だから目の前の景色はきれいではない」
という思考にならないのです。
その瞬間、あなたは単に目の前のきれいな景色を感じているのです。
また、あなたが大好物の焼肉弁当を食べるとする。
このとき
「いやぁ、まだまだこれより高級で美味しい弁当はいくらでもある。だからこの弁当は美味しくない」
とはならないわけです。
その瞬間、あなたは単に目の前の焼肉弁当そのものを味わっているのです。
なぜ、目の前にあるものに対して、
妄想を持ち込んだり、持ち込まなかったりするのですか?
良いですか。比較のメガネを外して「存在そのもの」を見てください。
あなたは ”小さな” 家に住んでいるわけではありません。
雨風をしのげて、安らかに眠れる家に住んでいるのです。
あなたは ”安い” 服を着ているわけではありません。
体を守り、快適に過ごす服を着ているのです。
あなたは ”中古の”車 に乗っているわけではありません。
好きなときに、好きな場所へ連れて行ってくれる車を持っているのです。
わかりますか。
何も私はあなたに
「物事には常に良い側面と悪い側面がある。
良い気分でいるためにポジティブな側面に注目せよ。」
と無理強いしているわけではありません。
妄想するのをやめて、ただ “ありのままの姿” を見てください、と言っているのです。
「高い、安い」「大きい、小さい」「多い、少ない」「新しい、古い」
これらは頭の中でこしらえた概念に過ぎません。
比較する対象があってこそ存在するからです。。
これらの概念は、すべて相対的な枠組みの中で初めて意味を持ちます。
比較に依存した豊かさの定義は、永遠に不安定です。
それは常に他者の存在と変動する外部の条件に影響を受け続けるからです。
誰かがより広い家に引っ越せば、自分の家は「小さく」なり、誰かが高級ブランドを身につければ、自分の服は「見劣り」する。
この構造の中にいる限り、あなたの豊かさは絶えず脅かされ、比較の波に翻弄されることになります。
では “比較” という概念を手放したとき、どうなるのでしょうか。
「純粋な体験」をすることになります。
雨風をしのげる家に身を置くという事実。
身体を覆い、温度を保ってくれる衣服があるという事実。
好きなときに移動できる手段を持っているという事実。
妄想に隠れて認識できなかった “ありのままの姿” が自ずと浮かび上がってきます。
豊かさとは、どこか遠くにあるものではありません。
ただ存在そのものを直視した際に自ずと現れてくるのです。
頑張って豊かさを感じようとする必要はありません。
頑張ってポジティブに思考する必要もありません。
目の前にないものを妄想で持ち込まないでください。
全部手放してみてください。
真実を経験するのに努力はいりません。
あなたは生まれてから豊かさしか経験していなかったのです。
