ただ感謝する。この世界は愛に満ちている

今回は「感謝」というテーマでお話します。


といっても

感謝で何かを引き寄せようとか、

現実を変えよう、

というわけではありません。


無理やり感謝する側面を見つけるとか、

充足を向く

というわけではないのです。


今一度、この世界の捉え方を見つめ直していただきたいのです。


最後まで読むと、

・感謝しないほうがおかしい

・不平不満は錯覚だった

と気づくでしょう。

一瞬で消える”満足感”


突然ですが、

初めてスマートフォンを持ったときのことを

覚えていますか?


あのときの高揚感。

手にした瞬間のワクワク。

僕は今でもはっきり覚えています。


これまでパソコンでしか見れなかった動画を

小さなスクリーンでどこでも見られるようになった。


これはまさに革命でした。

いつも家族と競って使っていたパソコンを、

もう使う必要がなくなった。


しかもどこにでも持ち運べる。

ベッドで寝ながら見ることだってできるのです。


わからないことはいつでも調べることができる。


僕は絶望的な方向音痴で

地図など全く読めないのだが、

Googleマップでいつでも一人で好きな場所に行ける。


これまで音楽プレイヤーに

CDから取り入れて聞いていた音楽も

直接ダウンロードして聞ける。


欲しいと思った瞬間に、

その音楽に触れることができる。


友達への連絡は、

ガラケーのメールで、

一通ごとにお金がかかっていた。


確か、1通2円くらい。

何通もやり取りすれば、

それなりの金額になる。


だからそれなりに言葉を選んでた。

それがスマホの登場で

いつでも無料でメッセージが送れるようになった。

おまけにグループトークもできる。


学校が終わっても、

家に帰ってからも、

時間も場所も関係なく、

気兼ね無く、すぐに連絡を取ることができる。


「スマートフォン」

はまさしく魔法そのものでした。


それが今ではどうでしょう。

あれほど感動していたものも、

いまでは何の違和感もなく、

当たり前のように使っている。



動画が見られることも、

迷わず目的地に行けることも、

音楽をすぐに聴けることも、

誰とでもすぐに繋がれることも、


特別なことではなく、

「普通のこと」になっている。


そしていつの間にか、

「通信が遅い」

そんな不満すら口にするようになっている。


動画が一瞬止まるだけで、

イライラする。


ページの読み込みが数秒遅いだけで、

ストレスを感じる。


電車の中で電波が弱くなると、

不満を覚える。


バッテリーの減りが早いと、

それだけで気分が下がる。


少し前まで、

存在すらしていなかったものに対して、

「遅い」「不便だ」と感じるようになっている。


本来なら、

それが“あること”自体が

驚くべきことなのに。


そして

その「すごさ」に気づくこともなく、

また次の「欲しいもの」を探し始める。


もっと便利なもの。

もっと新しいもの。

もっと満たされる何か。


スマートフォンはほんの一例に過ぎません。


車も、家も、服も。

すべてに、同じことが言えます。

手に入れた瞬間は満たされる。

でも時間が経てば、それは「当たり前」になる。


そしてまた、

“足りない何か”を探し始める。


この繰り返しの中で、

いつの間にか、

「満たされていない」という前提で

生きるようになっていく。


求める対象は変わっても、

そのたびに手に入れても、

心の渇きは、いつまでも癒えない。


いつまでこの不毛なループの中にい続けるのでしょうか。


あなたに必要なのは

心を満たしてくれる次の目標ではなく、

「当たり前」を見つめ直すことではなかろうか。

何気ない日常

朝起きてから、

ご飯を食べ、支度し、

会社に行く。


この何気ない1時間を見てみよう。


あなたが気持ちよく眠るためのベッドも、

多くの人の手を経て、ここにある。

マットレスの素材をつくる人。

設計する人。

縫製する人。

運ぶ人。


カーテンを開ければ、光が入る。

窓ガラスも、枠も、家そのものも、

誰かの仕事の積み重ねでできている。


蛇口をひねれば、水が出る。

温かいお湯まで使える。


見えないところで、

水を浄化し、送り、保つ仕組みが動いている。


キッチンには食べ物がある。

それもまた、

育てる人、運ぶ人、並べる人の連なりの中で

ここに届いている。


服に袖を通す。

その一着も、

糸をつくるところから、縫う人、運ぶ人まで、

数えきれない工程を経ている。


外に出れば、

道があり、信号があり、

電車や車が時間通りに動いている。


あなたの安全のために。

あなたの快適のために。


この一つひとつを、

本当に「当たり前」と言い切れるだろうか。


あなたの日常生活は、

どこを切り取っても、

周囲の支えのもとに成り立っている。


それどころか、

人類の幾度となく繰り返されてきた

改善と進歩の上に成り立っている。


もっと言おう。


あなたが何気なく使っている、そのコップ。


それを形作る材料は、

どこから生まれたのだろうか。


毎日、当たり前のように口にしている

ごはんやパン。


その原材料である、

米や小麦は、

どこからやってきたのだろうか。


自然の恵みであり、

大地の恵みであることはわかる。


けれど、

その「存在そのもの」が

どこから来たのか。


突き詰めていけばいくほど、

はっきりとした答えには

たどり着けない。


スマホ、ベッド、服、家、、、

あなたの生活を支えている

これらの原材料である

鉱物、木、石油などの自然は

なんかわからんけど、そこにあるのだ


少しだけ立ち止まって見てみると、


それは、

自分の手の中だけで

完結しているものではないと気づく。


人の手を超えた、

大きな流れの中で

ここにあるもの。


あなたの生活を便利にしているものも、

あなたを満たしているものも、

自分が生み出したものではない。


自分がこの世界に生まれたとき、

それらはすでに、そこにあった。


これを、

「神の祝福」と呼ばずに、

何と表現できるだろうか。

「当たり前」という錯覚

ここまで見てきたように、

私たちの日常は、

本来「当たり前」と呼べるようなものではない。


にもかかわらず、

無意識のうちに「当たり前」として処理している。


そして、

その“当たり前”に対して、

何も感じなくなっている。


これが、

「満たされない」という感覚の

正体なのだ。


何かが足りないのではない。


ただ、

すでにあるものを

受け取れていないだけ。


見えていないだけ。


だから、

さらに何かを足そうとする。


でも、

いくら外側に求めても、

この構造のままでは、

同じことが繰り返される。

満たされることはない。


では、どうすればいいのか。


何かを手に入れることではない。

何かを変えることでもない。


ただ、

「当たり前」をやめること。


それだけでいい。


すでにあるものを、

そのまま見てみる。


評価も、解釈もせずに、

ただ事実として受け取る


そのとき、

自然と湧いてくるものがある。


それが、

「感謝」なのだ。


感謝は、

作るものではない。


無理に探すものでもない。


気づいたときに、

勝手にそこにあるもの。


もしかすると、

感謝がなかったのではなく、

最初から、

感謝しかなかったのかもしれない。


「当たり前」はすべて錯覚だったのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です