私は幼い頃から周りとは違う、風変わりな子どもでした。
物事に対して、いつも一歩下がって捉えていて、
それはまるで、「人間という存在」や、「この世界そのもの」の振る舞いをどこか他人事のように観察しているような感覚でした。
周囲に溶け込もうと努力していたし、実際、周りからはそう見えていたと思います。
けれど心の奥では、ずっと静かな孤独が横たわっていました。
そんな私の頭の中では、いつもこんな疑問が巡ってたのです。
「なぜ人は、これほどまでに“幸せ”を追い求めるのだろう?」
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誰もが「幸せになりたい」と願い、
日々その実現に向けて奔走しています。
それはこういった具合にです。
評判の良い進学校に通い、模試の偏差値に一喜一憂しながら、深夜まで参考書とにらめっこをする。
ようやく希望の大学に入っても、すぐにインターンや資格取得の準備に追われ、「将来のために」とスケジュール帳をびっしり埋めていく。
そして、名の知れた企業への内定を目指し、自己分析やES(エントリーシート)に悩み、面接の言葉遣いや姿勢ひとつにも“正解”を求めて磨いていく。
だが、希望の会社に入っても、それで終わりではない。
入社すれば今度は、同期との競争、上司の評価、異動の不安、将来のキャリア設計が待っている。
ミスをすれば「評価が下がるのでは」と怯え、実績を出せば「次はもっと」と求められる。
誰かに認められるために、常に気を張り、疲れていても「大丈夫です」と笑顔を保ち続ける。
恋愛においても、SNSで見かけた理想像に自分を寄せていく。
話し方、服装、趣味、体型、立ち居振る舞い。
「選ばれるためにはどうすればいいか」を無意識に考えながら、“自分らしさ”と“好かれる自分”のあいだで揺れ動く。
健康を維持するためには、栄養バランスの計算された食事を意識し、オーガニックかどうかに敏感になり、コンビニでの選択一つにも罪悪感を覚える。
少し喉が痛い、頭が重い、そんな違和感があれば、スマートフォンで症状を検索し、不安を鎮めるように病院を受診する。
けれど、私はこうした一連の努力に、どこか根源的な違和感を抱いていました。
それは、こうした問いが私の中に生まれたからです。
「幸せとは、本当に“獲得”しなければならないものなのだろうか?」
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もし、幸せが外側から取りに行くべきものだとするならば、私たちは一体、何のために生まれてきたのでしょう。
“幸せではない存在”として生まれ、何かを得てようやく“幸せな存在”へと変わるためでしょうか。
だとすれば、私たちの本質は「不完全」や「欠乏」であり、幸せはそれに後づけされた装飾のようなものに過ぎません。
赤ん坊のころ、私たちは何の努力もせず、ただ周囲に愛され、守られ、あらゆるニーズが自然と満たされていました。
けれど成長するにつれ、こう言われるようになります。
「もう子どもじゃない。自分のことは自分でしなさい。」
「立派な大人になりなさい。自立しなければならない。」
雨風をしのぐ家で眠り、食べて生きるためには、今や自ら働き、競争に勝ち、努力を重ねることが求められる。
かつて“当たり前”だった安心と充足は、努力の対価として初めて手に入るものになったのです。
しかも、その安心と充足は一度得たら終わりではありません。
維持していかなければならないのです。
立ち止まれば、失われていく。
ボーっとしていれば、他者に追い越され、取り残されてしまう。
それはまるで、人参をぶら下げた馬のようです。
乾いた砂に水を注ぐようなものです。
一度手に入れたはずなのに、指の間からこぼれ落ちるように、霧のように静かに消えていく。
「満足感」「安心感」「達成感」
たしかにこの手にあったはずなのに、次第に輪郭を失い、また次の「人参」を求めてしまう。
まだ見ぬ未来に、まだ足りぬ何かに、幸福の幻を重ねて走り続ける。
まるで、終わりのない追いかけっこのように。
こんな世界で生きていく意味があるのでしょうか?
我々の本質が「不完全」である以上、何をどう足しても不完全なのです。
私はある種のニヒリズムに陥っていました。
何をしても無意味のように感じていました。
努力しても、結果が出ても、それが何だというのだろう。
そんな思考が、いつも頭のどこかにまとわりついていたのです。
生きていくことに理由があるのだとしたら、私はその理由をどこにも見出せませんでした。
気がつけば
「なぜ私は、こんな世界に生まれてきたのだろう」
という問いが、日常の隙間に入り込み、私の思考を支配していました。
それはいっそ、この世界から消えてしまったほうが楽で、幸せなのではないかと真剣に考えるまでに私を追い詰めていました。
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さて、そんなネガティブ極まりない幼少期を過ごしてきましたが、ある日転機が訪れます。
急に「私は不完全だ」という大前提に違和感を覚えたのです。
思考というのは不思議なもので、どれほど行き詰まったように見えても、あるときふと、
「問いの立て方そのものが間違っているのではないか」
と感じる瞬間が訪れるのです。
「問いの立て方自体が違っていたのかもしれない」
そう思い至ったとき、私の中で何かがわずかに、しかし確かに軋んだ音を立てて動き始めました。
これまで
「どうすれば幸せになれるか」
「どうすればこの不完全な自分を修正できるか」
という問いを、当然のように前提としてきました。
でもそれはつまり、
「私は幸せではない」「私は不完全である」という出発点から、すべてを組み立てていたということに他なりません。
もし、出発点そのものを反転させてみたらどうだろう。
「私たちは本来、すでに完全である」としたら。
それは
「私達は完全であるがゆえに、不完全な視点で世界を見ると世界も不完全に振る舞うのではないか」
という自らの不完全性をも完全の一部として捉えてみる試みでした。
この転換は当初は人生を劇的に変えるような閃光ではありませんでした。
むしろ、日常のなかでそっと芽吹いた、見過ごされそうなほど小さな違和感にすぎません。
けれどその小さな芽は、やがて私の世界の見え方そのものを静かに、そして根本的に変えていくことになったのです。
「私は本当は完全である」
これはとどのつまり、
「私は生まれつき幸せであり、そこに何も付け足す必要はない」
ということです。
言い方を変えましょう。
「私は完全であり、幸せとは自分そのものにほかならない。
それは自分が存在している以上、幸せを感じる要素は自分が獲得しにいかなくても、向こうからやってくる」
ということです。
それは、あくせく働かなくても必要なお金は必要なときにきちんと自分の銀行口座に入っているということです。
自分に好きな人ができたら、相手も自分のことが好きになっているということです。
例え農薬まみれ、添加物まみれのご飯やお菓子を食べても、それらは一切自分の健康には関係ないということです。
願望は自分から叶えようとしなくても、勝手に叶っていくということです。
どうでしょうか?
とても現実的な話には聞こえませんか?(笑)
大丈夫です。私も最初は信じられませんでした。
だが、かすかに心の奥で
「もしかしたら、本当はすべて完全なのかもしれない。」
という疑いを持ち続けていました。
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この疑いを持ち始めたのは、私が大学3年生のときでした。
ちょうど進路に悩んでいた時期でもあり、
周囲が次々とインターンに応募し、内定への階段を登っていくなか、私はどうしても「就職する」という選択肢に気持ちが向きませんでした。
安定を手に入れるために、自分の時間や自由やエネルギーを“会社”という箱に差し出す生き方に、どこかで深く違和感を覚えていたのです。
かといって、起業したいとか、特別なスキルがあるわけでもない。
バイトで細々と生きる未来を思い描くと、それもまた現実味がなく、どこか空しい。
まさに、進むべき道がどこにも見当たらない感覚でした。
八方塞がりです。
そんななかでふと、
「もしかしたら、すべては最初から完全なのかもしれない」
という小さな気づきが心に芽を出しました。
ごくかすかな疑いでしたが、そのときの私には、それが唯一の希望に思えたのです。
やがてそれは
「この世界は完全だ。もし不完全ならば自分はこのまま世界から消えよう」
という覚悟に変わっていきました。
これは無謀な挑戦に見えるかもしれません。
ですが当時の僕にとっては、挑戦というより
「そうでなければ、この世界は狂っている」
という切実な問いへの答えでもありました。
人はよく「人生には保証がない」と言います。
でも、私にとってはこの賭けにこそ、唯一の保証があったのです。
それがもし間違っていたなら、私はこのまま世界からフェードアウトしていくだろう。
だが、もし本当に世界が完全ならば、何も持たず、何者でもない自分を、その完全さが抱きとめてくれるはずです。
だから、私はすべてを賭けました。
オールインです。
未来の安定も、他人の評価も、世間的なキャリアも。
「自分は、ただ存在しているだけで価値があるのか?」
その問いに、理屈ではなく、生身の人生で答えを出したかったのです。
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手始めに、私は大学を辞めました。
それは一時の衝動ではなく、極めて静かで、明確な決断でした。