「あなた自身の光の力」

以下、引用。

「あなた自身の光の力」


参加者:

私はただここにいます。

それだけです。

でも、私たちは皆ただここにいるだけですよね。


その通りです。

でもその中で新しいことが一つあります。

それは、

「あなたは何としてここにいるのか?」

ということです。

誰もが自然に

「私はここにいる」

と言います。

しかし、

「私はあそこにいる」

とは言えません。

「あそこへ行きたい」

とは言えます。

しかし実際には、常に

「私はここにいる」

のです。

たとえ月へ行ったとしても同じです。

地球へ電話して、

「今どこにいるの?」

と聞かれたら、

「月にいるよ」

と言うでしょう。

しかし本当には

「私はここにいる」

なのです。

どこへ行っても「ここ」です。


では、

「何としてここにいるのか?」

という問いはどうでしょう。

ここで人は混乱し始めます。

なぜそんな質問が重要なのでしょうか。

「私はここにいる」

と言うのは誰なのでしょう。

身体でしょうか。

身体が

「私はここにいる」

と知っているのでしょうか。

身体は自分がどこにいるか知っているのでしょうか。

身体は

「私はサンタクララとどこかの中間地点にいる」

などと言えるでしょうか。

言えません。


では神が

「私はここにいる」

と言うのでしょうか。

「今は天国ではなく、この場所にいる」

と言うのでしょうか。

そうではありません。


それでは、

「ここにいるのは誰なのか?」

この問いは人を戸惑わせます。

なぜなら人はそんな問いを予想していないからです。

普通は

「私はここにいる」

で終わりだからです。


もし私がさらに、

「正確に言うと、あなたは誰なのですか?」

と尋ねたらどうでしょう。

おそらく心はこう思います。

「なんて失礼な質問だ」

「見れば分かるだろう」

「なぜそんなことを聞くんだ」

と。


もし私が

「人としてここにいるのですか?」

と尋ねれば、

誰も異論はありません。

もちろん人としてここにいる。

では、

『人』とは何でしょうか?


ここで多くの人は深く不快になります。

「なぜそんなことを聞くの?」

「私は平和を求めてここへ来たのに」

と。


しかし考えてみてください。

あなたは平和を保てていますか。

平和を経験したことはあるでしょう。

でも、

それを保てたでしょうか。

平和維持活動をしている人でさえ、

平和を保つことはできません。


だから私はこうした質問をするのです。

私はあなたを困らせたいのではありません。

私は、

平和が去っていかない場所

を見せたいのです。

幸福が消えない場所。

生きていて、

決して死なない場所。

そこを見せたいのです。


もしかするとあなたは一生探してきた何かを見つけるかもしれません。

意識的に探している人もいます。

偶然そこへたどり着く人もいます。


だから私は尋ねます。

「あなたは何を探しているのか」

「人とは何なのか」

と。


人はよくこう言います。

「私はこういう人間なんです」

「私は献身的な人です」

「私は愛情表現が苦手です」

「私は利己的です」

「私は親切です」

と。


しかし、

親切さは分かります。

利己心も分かります。

でも、

人そのものとは何でしょうか。

それはどんな姿をしているのでしょう。

身体が人なのでしょうか。

身体と人は同じなのでしょうか。


こうした問いはすべて、

あなたが

「私はここにいる」

と言った瞬間から始まっています。


多くの人は深く入りたがりません。

深く入ることは居心地が悪いからです。

人生は十分うまくいっていると思うからです。


「私の人生は悪くない」

「もう少しお金があればいい」

「休暇が少し増えればいい」

「それ以外は満足している」

そういう人もいます。

それはそれで良いのです。

幸運を祈ります。


しかし別の人たちは言います。

「いや、何か足りない」

「なぜか満たされない」

と。


お金もある。

時間もある。

良い家族もいる。

良いパートナーもいる。

望むものは手に入れた。

それなのに何かが満たされない。


「何が足りないのですか?」

と聞くと、

「分からない」

と言います。


「物質的な何かですか?」

「違う」

「何かを探している」

「でも何を探しているのか分からない」

と言うのです。


私はそういう人が好きです。

なぜなら、

その人が本当に探しているものは、

どこか遠くに隠れているわけではないからです。

隣の部屋にもありません。

1センチ先にさえありません。


実はすべての存在は、

人間だけでなく、

同じものを探しています。

私はそう断言できます。


もちろんその途中で、

私たちはたくさんの表面的な欲望を満たそうとします。

しかしある人たちは、

それらを脇に置きます。


「もう回り道はいらない」

「私は直接それを欲しい」

「今すぐ欲しい」

と言います。


そういう人たちが、

日曜の午後にこういう場所へ来ます。

一緒に探究するためです。

一緒に見てみるためです。

何が見つかるかを。


参加者:

私は1か月前にサハジャを離れてリスボンへ行きました。

そして今もそこにいます。

環境はまったく違います。

人々も違います。

街も違います。

日常も違います。

でも何かは同じです。

すべてが違うのに、

何も違わないようにも感じます。

ポルトガル語で話しています。

感情もいろいろ出てきます。

大きな愛も現れるし、

大きな恐れも現れます。

すべてが崩れそうな感覚もあります。

でも何かは変わっていません。

それはとても良いことです。

サットサングにしばらく触れている人なら、そういう変化が起こるのは自然なことです。

もしあなたが以前とまったく同じ反応をしているなら、むしろ私は驚くでしょう。

以前は圧倒されていたものが、今ではそれほど大きな力を持たなくなっている。

もちろん恐れや不安はまだ現れます。

しかし、それらは以前ほどあなたを支配できない。

それは素晴らしいことです。


ここで大切なことがあります。

今や多くの人は理解し始めています。

単なる知的理解ではなく、

体験として理解し始めています。


あなたが感じること。

考えること。

想像すること。

知覚すること。

それらはすべて

現象(phenomenon)

です。


現象とは何でしょうか。

それ自体に固定された意味を持たないものです。

物事そのものはただ存在しています。

しかし、

その意味は見る人によって変わります。


例えば、

ある人は孔雀の羽を見ると大喜びします。

「なんて美しいんだ!」

と言って髪に飾るかもしれません。


別の人は同じ羽を見て、

「縁起が悪い!」

と恐れるかもしれません。


では、

孔雀の羽そのものに、

本当にそうした意味があるのでしょうか。

ありません。


意味を与えているのは心です。

私たちが解釈を加え、

その解釈を真実だと思い込むのです。


しかし私は言います。

それは真実ではありません。


何かに、

あなたの解釈とは無関係な意味があるでしょうか。

あるいは、

どんな考えでも、

どんな感情でも、

本当にそれ自体の意味を持っているでしょうか。


例えばあなたは言います。

「私はあの人をよく知っている」

「あの人はこういう人間だ」

と。


しかし別の人は、

まったく違う姿を見ています。

友人には別人のように映るかもしれません。


では、

どちらが本当なのでしょうか。


だから大切なのは、

物事そのものと、

あなたがそれについて抱いている意味を区別することです。


あなたを苦しめるのは、

出来事そのものではありません。

その出来事についての解釈です。


さらに重要なのは、

「自分を何者だと思っているか」

です。


あなたが自分を何者だと思うか。

それがすべてに影響を与えます。


人はよく

「彼は嘘をついている」

と言います。


9時に来たと言ったけれど、

実際は10時だった。

だから嘘だ、と。


しかし私は別の角度から見ます。

もし、

あなた自身についての理解が間違っているなら、

あなたが語るすべてはその誤解の上に立っています。


もし

「私とは誰か」

という最も根本的な理解が誤っているなら、

その上に築かれた世界観もまた不安定です。


もちろん日常生活では、

時間も必要です。

約束も必要です。

距離も必要です。


しかしサットサングは、

もっと深い場所を見ています。


測っている側は誰なのか。

判断している側は誰なのか。

経験している側は誰なのか。


そこを見ているのです。


これがサットサングの招待です。


参加者:

日常生活では、

人生を解釈したい衝動があります。

愛を握りしめたいし、

恐れから逃げたい。

でもそれも見えています。

それは私ではないと分かっています。


それを欲しがる「人」がいます。

でもそれも見えています。


そしてその見ていることさえ、

言葉のない空間の中に保持されているように感じます。


ムージ:

とても自然なことです。


意識が身体と同一化すると、

好き嫌いが生まれます。


そして条件づけが重なり、

「私」という人物像が形成されます。


文化。

宗教。

教育。

家族。

社会。


それらが集まって、

「私とはこういう人間だ」

という感覚を作り出します。


しかしよく見てください。

その人物像は変化し続けています。


10年前のあなた。

20年前のあなた。

子供の頃のあなた。


それぞれまったく違う考え方をしていたはずです。


人生観も違う。

価値観も違う。

世界の見方も違う。


では、

そのどれが本当のあなたなのでしょう。


それでもあなたは感じています。

「私はずっと同じ私だ」

と。


ここで重要な問いが現れます。


何が変わらず残っているのか?


考えは変わる。

感情も変わる。

価値観も変わる。

身体も変わる。


それなのに、

何かはずっと同じです。


その変わらないものは何でしょうか。


それは本当に「人」なのでしょうか。


こうした探究は価値があります。

なぜなら、

あなたが発見しようとしているものは、

人生で最も重要な発見だからです。


最初は抵抗が起こります。

疑いも起こります。

恐れも起こります。


理解より先に、

誤解が現れることもあります。


心はこう言います。

「ここから出よう」

「居心地が悪い」

「こんなの嫌だ」

と。


しかし本当に自由を求める人は、

その不快感を引き受けます。


なぜなら、

その小さな不快感の向こうに、

本物の自由があるからです。


多くの場合、

私たちは快適な時よりも、

不快な時にこそ深く成長します。


そこで初めて、

自分自身と世界について、

より深い理解に至るのです。

参加者:

波はまだ来ます。

恐れや不安の波です。

以前ほどではありませんが、まだ現れます。


しかし、

その波は誰に来ているのでしょうか。


参加者:

意識の中に現れているように感じます。

空間の中に現れているように感じます。


ではなぜ、

ある種類の波だけがやって来るのでしょう。


すべての可能な思考が現れるわけではありません。

特定のものだけが繰り返し現れる。


それはまだ何らかの同調があるからです。

何らかの興味や同一化が残っているからです。


まるでその思考がやって来て、

こう尋ねているようです。


「私はまだ歓迎されているか?」

「まだ私を信じているか?」

「まだ私と一緒にいるか?」


そしてあなたは無意識に

「はい」

と答えてしまう。


だから現れ続けるのです。


あなたは興味のないものを超越する必要はありません。


もし本当に興味がなければ、

それは問題になりません。


問題として登録されることすらありません。


だから見なければならないのは、

その波そのものではなく、

その波によって揺さぶられる「誰か」です。


誰が苦しんでいるのでしょう。

誰が傷ついているのでしょう。


そこにまだ曖昧さが残っています。

まだ二元性が残っています。


それを明確にすることは美しいことです。


そうすれば、

その波は力を失います。


なぜなら、

それはもはや住む場所を失うからです。


あなたがそれに個人的に反応しなくなるからです。


実際、

私はよくこう言います。


「すべての問題は個人的なものである」


問題があるとき、

あなたは「個人」になっています。


例えば誰かが言います。

「請求書が払えないんです」

「それは問題でしょう?」


私は言います。

「それは事実です」

「しかし問題とは限りません」


請求書が払えない。

それは状況です。


しかし、

その状況に対して心が作り出す恐怖。

未来への想像。

自己否定。

絶望。


それらが加わった時、

初めて『問題』になります。


問題とは、

主に心理的な感覚なのです。


同じ状況でも、

平和でいられる人がいます。


できることをすべてやった。

それでも解決しなかった。


だから人生に委ねる。


そういう人もいます。


彼らは状況を認識しています。

しかし、

それを心理的な苦しみに変換しません。


だから問題にならないのです。


サットサングを続けると、

あることに気づきます。


それは、

人生の中で起きた多くの問題が、

実は自分によって解決されたのではなかったということです。


人生そのものが解決してくれた。


あなたは覚えていますか。


かつて、

「これで終わりだ」

と思ったことを。


絶対に乗り越えられないと思ったことを。


世界が終わるように感じたことを。


しかし今、

それらはどこにありますか。


消えてしまっています。


あなたが解決したのでしょうか。


多くの場合、

違います。


人生が動き、

状況が変わり、

時間が流れ、

気づけば消えていたのです。


しかし私たちは忘れてしまいます。


面白いことに、

人間は

恩恵については短い記憶を持ち、
苦しみについては長い記憶を持っています。


助けられたこと。

守られたこと。

救われたこと。


そうしたことはすぐ忘れる。


しかし傷つけられたことは、

何年も覚えている。


だから感謝が育たないのです。


実際には、

人生は何度もあなたを支えてきました。


あなたの能力を超えたところから、

助けが来たこともあったはずです。


予想外の人が現れた。


予想外の出来事が起きた。


絶望していたのに、

道が開いた。


そういう経験を、

誰もが持っています。


だから私は言います。


誰にでも、

感謝できることがあります。


しかし私たちは、

あまりにも豊かに支えられているので、

それを当たり前だと思ってしまう。


だから時々人生は、

あなたを少し締め付けます。


すると再び感謝を思い出すのです。


感謝を思い出した瞬間、

あなたは再び人生との信頼関係を回復します。


そしてその信頼は、

心の作り出す問題を溶かしていきます。


なぜなら、

問題は未来への恐れから生まれ、

信頼は今に根ざしているからです。


人生を信頼するほど、

心は力を失っていきます。


そしてあなたは気づき始めます。


本当に守られているのは、

個人的な物語ではなく、

存在そのものなのだと。

「すべてを手放したら何が残るのか」

女性参加者は、長年にわたって愛を求め続けてきた苦しみについて語ります。


女性参加者:

今日はとても苦しいんです。

私はずっと愛を探してきました。

子供の頃は母親からの愛を求めました。

その後は恋人。

友人。

周囲の人々。


でも今は分かっています。

本当に探している愛は外にはない。

自分の内側にある。


それなのに、

最近また心が攻撃してくるんです。


「お前には価値がない」

「愛される資格がない」

そう言ってきます。


私はそれを観察しようとしています。

でも、

もうこんな苦しみから自由になりたいんです。


興味深いですね。


心は、

あなたを「個人」として生きさせようとします。


そして個人として生きようとすると、

必ず噛みついてきます。


「お前は十分じゃない」

「もっと必要だ」

「まだ足りない」

と。


しかし、

実は良い面もあります。


なぜなら、

その声は最終的にあなたを個人性の外へ追い出そうとしているからです。


その声を超えなければ、

本当の自由には行けないからです。


あなたは気づいていますか。


その声が来る前から、

あなたはいました。


その声が話している間も、

あなたはいます。


その声が去った後も、

あなたはいます。


だから、

その声はあなたではありません。


呼吸でさえ同じです。


息が入ってくる。

出ていく。


あなたはその証人です。


思考も同じです。


やって来る。

去っていく。


あなたはその証人です。


では今、

一つの実験をしてみましょう。


過去をすべて脇に置いてください。


子供時代。

家族。

恋愛。

成功。

失敗。

傷。

記憶。


全部です。


今だけでいい。


少しの間だけ、

全部脇へ置いてください。


未来も同じです。


願望。

期待。

恐れ。

計画。

理想。

悟りへの期待さえ。


全部脇へ置いてください。


さらに、

「私はこういう人間だ」

という自己イメージも置いてください。


あなたの物語も。


あなたの名前も。


あなたの歴史も。


あなたの役割も。


全部です。


何も持たないでください。


何とも結びつかないでください。


今、

何が残っていますか。


(しばらく沈黙)


女性参加者:

何もありません。


ムージ:

何もない?


がっかりしましたか?


女性参加者:

いいえ。


ただ、

広大な空間があります。


愛があります。


とても大きな空間です。


ムージ:

その空間を作ったのですか?


努力して生み出しましたか?


想像したのですか?


女性参加者:

いいえ。


ただあります。


ムージ:

そうです。


まさにそれです。


それがあなたの仏性です。


キリスト意識と呼ばれるものです。


シヴァの本性です。


純粋な自己です。


そこには何か欠けていますか?


女性参加者:

いいえ。


ムージ:

それは消えてしまうでしょうか?


薄れてしまうでしょうか?


女性参加者:

分かりません。


でも、

いつもそこにある気がします。


ムージ:

なぜそう感じるのですか?


女性参加者:

だって、

ずっとそこにあるから。


ムージ:

そして、

あなたはそれと別ですか?


女性参加者:

いいえ。


私がその空間です。


(会場笑いと拍手)


その通り。


実験終了です。


心を返してあげましょう。


記憶も返しましょう。


物語も返しましょう。


名前も返しましょう。


人生も返しましょう。


全部返しても構いません。


でも今あなたは知っています。


それらが現れる前から、

あなたが存在していることを。


そしてそれらが消えた後も、

あなたが存在していることを。


これほどシンプルなことでいいのでしょうか。


マントラもない。


ヨガもない。


特別な修行もない。


ただ、

あなた自身の本来の姿です。


自然な状態です。


何かの宗教に属する必要もありません。


努力して作り上げる必要もありません。


あなたはそれだからです。


しかし心は戻ってきます。


そしてこう言います。


「良い体験だったね」


「でも現実は違う」


「さて次はどうする?」


すると再び古い物語が始まります。


だから大切なのは、

この体験を記憶することではありません。


思い出として保存することでもありません。


なぜなら、

あなたはそれを『体験した』のではなく、

一瞬、

自分自身として見たからです。


あなた自身の光によって。


あなた自身の存在によって。


誰かから与えられたものではなく、

あなた自身が見たのです。

「エゴはあなたの望む姿をして現れる」

今あなたは、自分自身の本質を見ました。

しかし私は一つだけ注意を与えたい。


これから心は様々な形で戻ってきます。


ある人は、

「私は悟った」

と思い始めます。


すると心はすぐに、

「お前は特別だ」

と言い始めます。


それもまた心です。


ある人には疑いがやって来ます。


「本当にそうだったのだろうか」

「勘違いじゃないのか」


それもまた心です。


そして最も巧妙な形があります。


あなたが長年求めていたものが、

突然目の前に現れるのです。


例えば、

完璧な恋人。


あなたが夢見ていた理想そのもの。


突然現れてこう言うかもしれません。


「ずっとあなたを探していました」


するとあなたは、

「本当に?」

と言って引き寄せられる。


これが古くからある心のやり方です。


人類が何千年も経験してきたものです。


心はいつも、

あなたの執着の姿をして現れます。


欲望の姿をして現れます。


恐れの姿をして現れます。


そして注意を奪います。


本来あなたが知っていた静かな確信を、

背景へ追いやってしまうのです。


その結果、

あなたは再び幻惑の状態に入ります。


実際、

世界中の問題を全部書き出したら、

一年かかっても書き終わらないでしょう。


国ごとに問題がある。


街ごとに問題がある。


家庭ごとに問題がある。


一人ひとりに問題がある。


しかし私は言います。


本当の問題は一つしかありません。


それは、

エゴです。


エゴとは、

自分自身の本質を忘れることです。


本来の自己から注意が逸れることです。


あなたが今見たものから離れることです。


ただそれだけです。


あなたは今、

とても美しいものを発見しました。


そして皆も見ました。


それがどれほど単純であるかを。


何年も努力した先にあるものではありません。


何十年も自分を責め続けた先にあるものでもありません。


人間にとって、

それは今ここで可能なのです。


なぜなら、

それは新しく獲得するものではないからです。


最初からそこにあるものだからです。


それにもかかわらず、

私たちは一生をかけてそれを見落とします。


そして今、

あなたはその明白さを見始めています。


自分自身の明白さを。


しかし注意してください。


心は諦めません。


「彼女は見つけてしまった。

もう別の人のところへ行こう」

とはなりません。


心は何度もやって来ます。


だから私は一つの物語を話しましょう。


昔、

とても無執着な男がいました。


彼には妻と子供がいました。


しかし何が起きても動じませんでした。


泥棒が来て家畜を盗んでも、

「必要だったのだろう」

と言いました。


友人が妻と関係を持っていても、

怒りませんでした。


子供たちが

「あなたを父親だと思いたくない」

と言っても、

彼は平然としていました。


何も彼を傷つけることができませんでした。


ついにはすべてを失い、

山の修道院で暮らすようになりました。


毎日、

砂庭を美しく整えます。


掃除をし、

仕事を終えたら、

岩の上で静かに瞑想します。


とても幸せでした。


あまりにも空っぽだったので、

人々は彼の存在に気づかないほどでした。


すると、

悪魔たちの王がその話を聞きます。


「この男は悟りに近づいている」


「放っておくわけにはいかない」


そこで三人の悪魔を送り込みました。


悪魔たちは観察します。


一日。


二日。


一週間。


二週間。


何も見つからない。


どんな誘惑も効かない。


するとある日、

風で小さな枝が砂庭に落ちました。


修道士は立ち上がり、

その枝を取り除きました。


悪魔たちは顔を見合わせました。


「見つけた」


翌日、

悪魔たちは庭をめちゃくちゃにしました。


すると修道士は激怒しました。


何十年も平和だった男が、

初めて怒り狂ったのです。


「あなたの小枝(twig)は何ですか?」


それがこの話のポイントです。


あなたを引っ掛けるものは何ですか。


心はそれを探しています。


なぜなら、

心はあなたと一緒に育ってきたからです。


あなたの癖を知っています。


弱点を知っています。


執着を知っています。


だからボタンを押してくる。


「これならどうだ?」


「これはまだ効くか?」


と試してくるのです。


しかし、

それさえも悪いことではありません。


すべてはあなたの目覚めに奉仕しています。


心の攻撃さえも。


誘惑さえも。


失敗さえも。


ただし、

それを正しく見ることができれば。


あなたは今、

自分自身の場所から見始めています。


その場所に立っていれば、

心が何を見せようと、

最終的にはあなたを騙せません。

「それを保とうとしないでください」

女性参加者:

どうすればこれを保てますか。


今はとても明らかです。


静かです。


自由です。


でも私は自分を知っています。


明日になれば、

また心が戻ってくるかもしれません。


また古い癖が出るかもしれません。


だから、

どうやってこの状態を維持すればいいのでしょうか。


まず最初に、

私はあなたにそれを保ってほしくありません。


(会場笑)


本当にです。


保とうとしないでください。


なぜなら、

保とうとする者こそが問題だからです。


保とうとしているのは誰でしょう。


静寂でしょうか。


存在でしょうか。


純粋な意識でしょうか。


違います。


それを保とうとしているのは、

再び「個人」です。


そして個人が登場した瞬間、

あなたは再び古いゲームの中に入ります。


だから私は言います。


何もしないでください。


ただ認識してください。


あなたは今、

何か特別な状態を達成したわけではありません。


特別な体験を獲得したわけでもありません。


何かを作り出したわけでもありません。


むしろ逆です。


あなたは何かを失いました。


誤解を失ったのです。


しばらくの間だけ、

誤った自己認識が退いたのです。


その結果、

もともとそこにあったものが見えただけです。


だから、

それを保持する必要はありません。


太陽は、

自分の光を保持しようと努力していますか。


空は、

自分の広さを維持しようとしていますか。


海は、

自分の深さを守ろうとしていますか。


何もしていません。


ただそれであるだけです。


あなたも同じです。


女性参加者:

でも、

心が戻ってきたらどうすればいいですか。


戻ってくるでしょう。


ほぼ確実に。


それが心の仕事だからです。


しかし以前との違いがあります。


以前は、

心が現れると、

あなたはそれになっていました。


恐れが現れる。


すると、

「私は怖い」

になる。


怒りが現れる。


すると、

「私は怒っている」

になる。


不安が現れる。


すると、

「私は不安だ」

になる。


完全に同一化していたのです。


しかし今は違います。


恐れが現れても、

それを見ている何かがあります。


怒りが現れても、

それを知っている何かがあります。


不安が現れても、

それを認識している何かがあります。


その認識こそが重要です。


その認識は変化していますか。


恐れに合わせて震えますか。


怒りに合わせて燃え上がりますか。


不安に合わせて崩れますか。


違います。


それはただ見ています。


静かに。


完全に。


偏ることなく。


だから、

注意を思考に与える代わりに、

認識そのものに気づいてください。


思考の内容ではなく、

思考を知っているものに。


感情の内容ではなく、

感情を知っているものに。


すると自然に安定します。


努力による安定ではありません。


理解による安定でもありません。


存在そのものの安定です。


これを本当に理解すると、

人生は驚くほどシンプルになります。


なぜなら、

あなたは人生をコントロールしようとしなくなるからです。


以前は、

すべてを管理しようとしていました。


人間関係も。


お金も。


健康も。


未来も。


評判も。


悟りさえも。


しかし今は分かります。


人生はずっと前から起きています。


あなたが管理する前から。


あなたが心配する前から。


あなたが計画する前から。


人生は起きていた。


そして今も起きています。


だから私は何度も言います。


人生を信頼してください。


存在を信頼してください。


神を信頼してください。


どんな言葉でも構いません。


ただ、

あなたの個人的な心よりも大きなものを信頼してください。


そうすると、

人生との戦いは終わります。


戦いが終わると、

莫大なエネルギーが解放されます。


そのエネルギーは、

本来の喜びとして現れます。


本来の愛として現れます。


本来の平和として現れます。


それらは新しく得るものではありません。


あなたの本質だからです。


そして私は言います。


それは誰にでも可能です。


今ここで。


特別な資格なしに。


特別な歴史なしに。


ただ、

自分自身であることによって。

「人生と戦うのをやめなさい」

参加者:

私は長年、自分を改善しようとしてきました。

より良い人間になろうとしてきました。

もっと愛のある人に。

もっと忍耐強い人に。

もっと霊的な人に。


でも終わりがありません。


どれだけ努力しても、

まだ足りないように感じます。


もちろんです。


なぜなら、

改善しようとしている主体そのものが、

問題の一部だからです。


あなたはずっと、

「私」という人物を完成させようとしてきました。


しかし人物は完成しません。


人格は変化し続けます。


今日は幸せ。

明日は落ち込む。


今日は親切。

明日は不機嫌。


それが人格です。


天気のようなものです。


しかし、

あなたは天気ではありません。


空です。


雲を直そうとする必要はありません。


空であることを思い出せばいいのです。


「起きていることを許しなさい」

別の参加者:

私は起きていることを受け入れるのが苦手です。


嫌な出来事が起きると、

すぐ抵抗してしまいます。


抵抗とは何でしょう。


「これは起きるべきではなかった」

という考えです。


しかし、

実際には起きています。


つまり現実と心が喧嘩しているのです。


現実はこう言っています。


「私は起きた」


心はこう言います。


「起きるべきではなかった」


そして苦しみが生まれます。


では、

もし起きたことを認めたらどうでしょう。


好きになる必要はありません。


賛成する必要もありません。


ただ、

起きたことを起きたこととして認める。


それだけです。


すると抵抗が消えます。


抵抗が消えると、

状況に対処する知恵が現れます。


抵抗している間は、

知恵が見えません。


「あなたは心ではない」

別の参加者:

私は何年も瞑想しています。


でも思考が止まりません。


誰が止めようとしているのですか。


思考を止めたいのは誰でしょう。


また別の思考です。


だから戦いが終わらないのです。


私は思考を止めろとは言いません。


思考を観察してください。


思考は来ます。


そして去ります。


次の思考が来ます。


また去ります。


そのことを知っているのは誰ですか。


そこにいてください。


思考の中ではなく、

思考を見ている場所に。


すると突然、

驚くべきことに気づきます。


思考は自由です。


現れてもいい。


消えてもいい。


あなたはそのどちらでもない。


最後のメッセージ

人生の大部分は、

自分自身との戦いです。


思考との戦い。


感情との戦い。


過去との戦い。


未来との戦い。


他人との戦い。


そして最後には、

神との戦いになります。


「なぜ私にこんなことが起きたのか」


「なぜ人生はこうなのか」


「なぜ私は自由ではないのか」


そう問い続けます。


しかし、

ある瞬間に気づきます。


戦っていた相手は存在しなかったと。


人生は敵ではなかったと。


思考も敵ではなかったと。


感情も敵ではなかったと。


それらはただ現れていただけだった。


問題は、

それらを『私』だと思い込んでいたことでした。


だから私は今日、

大きな秘密をあなたに伝えます。


心と戦わないでください。


心を破壊しようとしないでください。


心を超えようとさえしないでください。


ただ見てください。


静かに。


誠実に。


注意深く。


もし心が見えているなら、

あなたは心ではありません。


もし感情が見えているなら、

あなたは感情ではありません。


もし身体が見えているなら、

あなたは身体ではありません。


あなたはそれらを知っている存在です。


その発見こそが自由です。


そしてその自由は、

未来にあるのではありません。


死後にあるのでもありません。


特別な修行の果てにあるのでもありません。


今ここにあります。


常にありました。


そして常にあります。


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